ブラジルで開催されているワールドカップに日本から観戦に行った人々が、試合終了後のスタンドでゴミを拾っていたいたというニュースは、一部の海外メディアで美談として伝えられました。 これを受けて、日本では「これは日本人の美質」であるとして、賞賛するような報道が続いたわけですが、一方でロンドン在住のITエンジニアである谷本真由美さんは「自分もやったことがある」としながら、欧米では「お客が自分でゴミを拾うのは、清掃の仕事をする人の仕事を奪うから」という理由で、止めたほうがいいと言われたというエピソードを紹介しています。 この問題ですが、確かにアメリカでも同様な感覚があります。例えば、アメリカでは子供に学校の清掃をさせることはありません。清掃当番という制度は、アメリカには絶無です。その延長で、確かにスタジアムや公園などでユーザーである個人が、ゴミ拾いをするということは自然には行われていません。 勿論、公園や自然公園では、ゴミを出した人にはゴミ箱があれば、そこに処分することが、もしもゴミ箱がないのであれば、ゴミは持ち帰ることが正しいという感覚はあります。ですが、高額なチケット代金を払う代わりに、一定のサービスの期待できる交通機関や、スタジアムでの公演などの場合は、わざわざ床に落としたゴミまでを拾うことは求められていないように思います。 何故なのでしょうか? 確かに「仕事を奪うのは良くない」という言い方はしますが、その奥にはどんな思想があるのかというと、多分、社会のそれぞれの持場をリスペクトするという発想だと思います。 例えば、アメリカの学校には「ジャニター」という清掃員の人がいます。そのジャニターの人というのは、大体の場合は学校の人気者であるわけです。多くの子供たちに親しまれ、いつもニコニコしていて、時には困っている学生に声をかけてくれたりするのです。 その姿を見て、子供たちは「社会の一隅を照らす人」をリスペクトするということを経験的に学んでいくのだと思います。その発想の延長で、スタジアムでは、専門の清掃員の人がいるのであれば、清掃はその人に任せようということになるわけです。仕事を奪うなというのは、あくまで言い方であって、要はそうした職種の人へのリスペクトをするというカルチャーです。 では、お客がゴミを拾うのは「アウト」なのでしょうか? そこまでは言えないと思います。TPOによっては今回のように、礼儀正しい人々だという評価もされるのではないかと思います。ですが、TPOによっては、屈んでゴミを拾う行為をしただけで「軽く見られる」「格下に、あるいは卑屈に見られる」という危険はあるかもしれません。 ですが、それも許容範囲かもしれません。但し、暗黙の了解でリスペクトすることになっている「社会の片隅を支えている人々」に対して、明らかな軽視や蔑視をやってしまうと、これはアウトになります。その場で非難はされないでしょうが、人間としてのクオリティを疑われることはあると思います。 それはともかく、今回のブラジルでの「ゴミ拾い」という行動は、何となく対コートジボワール戦終了後に、サポーターの人々が敗戦を受け止める「心の整理」として「いつも以上にやってしまった」のではないかと思うのですが、本当のところはどうだったのでしょうか? 少々気になるところです。 |
0 件のコメント:
コメントを投稿