学生による被災地支援団体の代表を務める神田大樹さん(24)。 震災当初は、大阪大学に通う大学生でした。昨春から気仙沼大島に移住し、この3月で2年目を迎えます。大学では研究者の道を目指していた神田さんですが、現在は進路を教職へと変更し、気仙沼を拠点にした生活を送っています。神田さんの歩んだ震災以降の4年間を振り返り、いま必要な東北支援のかたちのヒントと「東北に関わることで見えてきた大切なもの」について考えます。 (前編こちら) ■まだ他にも出来ることがあるんじゃないか 震災直後から気仙沼大島に通い、がれき撤去のお手伝いから活動をスタートさせた神田さんたち。がれきの作業が一段落したあとも島の人たちとのコミュニケーションを続けていました。がれきの残った地域へ移動する団体もいる中、神田さんたちは「ここ大島で、まだ他にも出来ることがあるんじゃないか」と考え、活動の継続を模索していました。 そんな折、「島の子どもたちの元気がない」、「復旧作業で慌ただしい大人に子どもたちが萎縮している」という話を聞きました。以後、運動会や絵を描くワークショップなど、子どもたちに関わる支援活動に的を絞って展開します。 ■生きる目的や未来を伝える 震災2年目を迎え、多くの支援団体が活動を縮小したり撤退する中、神田さんたちは継続して大阪から気仙沼へ通い続けました。島の子どもたちは、小さな頃から漁業関係に従事する大人たちを大勢見ながら暮らしています。「学校を卒業したら、自分も島の漁業に携わるんだろうなぁ」と考えている子どもたちが多く、実際の進路にも大きく影響しています。神田さんも「これが、離島という小さなコミュニティーで、島の産業基盤を支えてきた原動力だ」と理解する一方で、「島の外側の世界に触れ、こんな世界があるんだ!と驚き、自分の将来を決める際に選択肢を1つでも多く持ってほしい」とも感じていました。 大島小学校の菊田校長が「震災を経た今、子供たちには夢を持ってほしい」とお話しされたことを受け、神田さんたちは、将来のことや夢について考えるワークショップを企画しました。 ■古いスタイルのつきあいに飛び込む 「当たり前のように大学に入って、疑いもなく研究者の道を歩んでいたが、このままでいいのだろうか?」震災から3年を迎える頃には、神田さん自身の心境にも変化が現れます。 月に一度の週末を利用して、地元大阪と気仙沼を行き来しながら、常に感じていたのは「もう一歩踏み込んで、島の事に関わっていきたい」という思いでした。漁師さんとお百姓さんが、それぞれがとった魚や野菜を物々交換しながら、お金を介さずに支え合って暮らしている島の風景が、神田さんにとってはとてつもなく豊かで贅沢な光景に見えてきました。 最初は震災で傷ついた人たちの助けになりたいとやって来た神田さんですが、島の人々とふれあううちに、一方が施すのではなく、お互いが不足するモノを融通し合い、助け合って生きる「物々交換」のような関係があることに気づきました。「島にある、古いスタイルの人付き合いは、一見面倒に見えましたが、いざ飛び込んでみると生きる知恵が詰まった、非常に合理的な仕組みだと気づきました」と神田さんは話します。 ■気仙沼で見えてきた、支援の形 神田さんは進路を教職に切り替え、2014年の春から生活の拠点を気仙沼に移します。大島の中学校で放課後の学習指導に携わる仕事に就きながら、趣味のインドカレー作りをイベント化して人をつなげる場づくりに発展させたり、気仙沼の特産品を産学協同で開発し商品化するプロジェクトにも関わり始めます。 「私が、皆さんを助けにやって来ましたーーーと言う大上段から支援の形は、いまは減ってきたんじゃないでしょうか」と神田さん。「今も継続している支援活動の多くは、一方向の関係ではなく、共存の関係性があると思います」。そこから見えてきたのは、足りないモノを物々交換し、ともに豊かな暮らしを作り上げる、昔ながらの生活の知恵でした。 |
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