NEWSを疑え! | | 開票速報…淋しいなぁ 【しがない軍事アナリストでなんとかやっております】 | | 知り合いの政治家で当選して国会に戻ってくる人、落選してうなだれる人の顔を思い浮かべるうちに、1976年12月の総選挙のことが浮かんできました。 一般に「ロッキード選挙」と呼ばれる1976年12月の総選挙は、金脈問題で退陣した田中角栄前首相のロッキード事件への関与が発覚し、7月27日の逮捕に至る激動の中で行われました。ロッキード事件を追及しようとする三木武夫首相は自民党内の多数から「三木おろし」と呼ばれる猛反発を受け、解散権を封じられたまま衆議院は現行憲法下で初の任期満了による総選挙となりました。 このとき、マスコミの目は台風の目ともいうべき動きに釘付けになっていました。結党半年で総選挙を迎え、大躍進が予想された新自由クラブです。 新自由クラブは、1976年初夏、自民党の河野洋平、西岡武夫、山口敏夫氏ら政策集団・政治工学研究所に所属する中堅・若手の国会議員が、政治倫理をめぐって自民党を離党し、結成した政党です。10年後の1986年、自民党に合流する形で解散しました。 私は講談社『週刊現代』記者としてロッキード事件を担当していましたが、同時に1976年初夏の結党直後から新自由クラブを担当し、河野洋平代表の神奈川県平塚市の自宅から国会に向かう河野さんの車に同乗し、横に乗って連載用のメモをとったものでした。 選挙の結果、新自由クラブは大躍進。25人の候補者のうち17人が当選を果たしました。それだけ国民の期待が大きかったのです。 いまから思えば、2009年の政権交代、そして民主党政権への国民の失望の大きさを示した2012年の自民党・公明党の政権奪回へと続く地殻変動を予感させる選挙でした。 新自由クラブも国民の期待に十分に応えることはできず、1979年10月の第35回総選挙では31人の候補者のうち4人しか当選できず、その後、1980年8月の第36回総選挙で候補者25人のうち12人が当選と盛り返したものの、あとは8議席(候補者17人)、6議席(候補者12人)とじり貧の道をたどり、1986年には自民党と合流することになります。 この新自由クラブは、結党からしばらくして3人の担当記者に政治家になるよう声をかけます。毎日新聞政治部の鈴木恒夫さん、朝日新聞政治部の若宮啓文さん、そして私です。 若宮さんと私はジャーナリストの道を進むことにし、若宮さんはのちに朝日新聞の主筆を務めます。鈴木さんは河野洋平さんの秘書を経て衆議院議員となり、最後のポストは文部科学大臣でした。そして、私はその後も自民党などから政治家になるよう誘われましたが、そちらの道には進まず、ご覧のように、しがない軍事アナリストでなんとかやっております。 私と政界との関係は、専門家の一員として関わることはあっても、そのくらいのものですが、選挙の開票速報をながめながら必ず頭に浮かぶのは、「あのとき政治家になっていたら、もうこんな当選回数なのか」という感慨です。 誘いに応じていたら、おそらく1980年8月の第36回総選挙に出馬していたと思いますから、連続当選していたら同じ年に初当選した麻生太郎さんや菅直人さんとならんで当選11回です。お二人のように首相になることは考えられないにしても、ひょっとしたら防衛省や外務省で仕事をしていたかも知れないと、しばし妄想に駆られたりする瞬間です。 そして、「ぼんやりしていると、ボケますよ!」との奥方の声で我に返ると、今度は言いしれぬ寂寥感に襲われる瞬間がやってきます。当時から知っている政治家が第一線を退き、一人もいなくなる瞬間が遠くない将来にやってくることを突きつけられるからです。 「いや、若手のことを考えていたんだ。安倍さんが安定政権で成功して、次は石破茂さんで、その次は西村康稔さん…。ずっと若い小泉進次郎さんの時代も遠くないかもね」 ノスタルジーに浸っていた私が、とっさにごまかしたのを奥方はお見通しのようで、心の中で「バーカ」と呟く声が聞こえてきました(笑)。 | | お試し読みはこちら>> | | | | |
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