筆者はやしきたかじんさんに大変お世話になった。『たかじんのそこまで言って委員会』には何度も呼んで頂いた。そして、カリスマと顔をあわし、一緒に仕事出来たことは誇りに思う。 闘病中も『たかじんのNOマネー』に呼んで頂き嬉しく思った。そのたかじんさんが亡くなった。あのたかじんさんがこんなにも早く死ぬなんて、思いもよらなかった。 "たかじんさんが死ぬなんて、関西の文句言いがおらんようになったらこの国はどないなるんやろう"。正直、そう思った。 僕の中でやしきたかじんは不死身の超人であるべきであった。 お別れ会にも行ったのだが、実感はなかった。 また、その死に関しては僕が饒舌に語るのはよくないと思っていた。何故なら、僕よりもっとたくさん一緒に仕事をした人たちに失礼になると思ったからだ。だから、僕はたかじんさんへの感謝の想いは胸の中にしまっておいた。 子供の頃から憧れたカリスマやしきたかじんと同じ時間を共有出来た思い出のみ心に刻み、天国で見てくれているたかじんさんに恥ずかしくないような物書きになろうと誓った。 僕が関西でいろいろテレビに出られるようになったのは、たかじんさんがきっかけであった。この恩義は決して忘れまいと何度も心の中でつぶやいた。 その後、百田尚樹氏というたかじんさんとは一面識も無い方が、たかじんさんの最期を本に描いたことに仰天した。たかじんさんの奥さんの告白をベースにしているから、それはそれで"奥さんから見た真実"なのだろう。 だが、何故たかじんさんと会ったことが無い人物が、やしきたかじんさんというカリスマの最期を"ドキュメント"っぽく描けるのか。それは奥さんのフィルターを通した"たかじん像"であって、客観的な"たかじん像"ではないと疑問に思った。 百田氏の「永遠の0」は拝読させて頂き感動もしたし、素晴らしい小説だと思った。だが、この「殉愛」をドキュメントとして扱う姿勢は疑問に思えた。小説と銘打ったのであれば、なんら問題はなかったのに。何故、百田氏ほど頭の良い人物がこの作品をドキュメントチックに仕上げたのか理解出来なかった。 僕は百田氏とは一面識も無い。だから、断言は出来ないが、彼は本当に優しい人物であり、金儲けに走るような守銭奴ではないと思う。彼の目を見ればわかるのだが、人情味のある人間のように思えてならない。 だからこそ、奥さんに同情しその視点から見た"最期のたかじん像"をドキュメントと判断したのではないか。また、生前のたかじんさんと会うことが出来なかった百田氏は、心底奥さんの語る“たかじん像”をリアルと感じ、実際にあったような感動をおぼえてしまったのではないか。 今後、黙っていたたかじんさんの周辺の人々が少しづつ、自分の中の"たかじん像"を披露していくだろう。中には疑問に思う"たかじん像"も出てくる可能性もある。だが、その全ての"たかじん像"がそれぞれにとってリアルであり、真実なのだろう。 正直、ガンで闘病中だったたかじんさんに餅を食べさせた奥さんの食生活管理の脇の甘さには疑問がわく。また、どう贔屓目に見ても時系列で判断すると、彼女がイタリア人と送っていた結婚生活とたかじんさんとの交際期間が被っている部分も不審である。 僕は彼女が後妻業のプロとして、遺産目当てでたかじんさんに近づいたとまでは言わない。また一部ネットで指摘されているような他殺説はとんでも理論だし、彼女への名誉毀損だと思う。 だが、大阪の繁華街で働いていたとされる彼女がやしきたかじんを知らないというのはファンタジーのように聞こえてしまうし、実の娘さんへの酷い描写は不要ではなかったのかと感じている。 たかじんさんの娘さんが起こした裁判の行方に注目したい。 |
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