冷泉 彰彦 現在、プリンストン日本語学校高等部主任。メールマガジンJMM(村上龍編集長)に「FROM911、USAレポート」を隔週寄稿。アメリカ北東部のプリンストンからの「定点観測」『冷泉彰彦のプリンストン通信』では、政治経済からエンタメ、スポーツ、コミュニケーション論まで多角的な情報をお届け! | 拙稿を英語化して、英語圏へ向けて発信するというのは、上智大学の河野至恩先生がプリンストン時代に私に「言い残していった」課題でして、それ以来ずっと心に引掛かっていたテーマです。 実現へ向けての環境が全くないわけでもないので、そろそろ準備にかかろうと思っているのも事実です。日本で「起きている」ことが、国際社会から大きな誤解を受けるようなことがあれば、私としてはいつでも本格的に動けるようにしたいと思っています。 さて、お尋ねの「だ、である」と「ですます」のような関係が英語にもあるかという問題ですが、色々考えてみたのですが、どうもそのような「相違」というのはないように思います。 まず日本語の「だ、である」と「ですます」には、語気の直接性という問題と、話者と聞き手の距離感という問題が重なっています。この両者は異なった機能ではありますが、要するに「話者と聞き手の関係性」を常に確認するという機能が、事実や論理といった情報伝達の機能との二重性を伴って重なっているわけです。 英語の場合も、聞き手との関係性が一切無視をされるわけではありません。ですが、そこには「書き手は論理と事実の伝達に努めることが聞き手への誠意」という良くも悪くも「コモンセンス」としての「お行儀の良い関係性」というのが「デフォルトの姿勢」として厳然とあるわけです。 更に言えば、何もかもが「対等」というのがデフォルトの文化ですから、下から上へと「聞き手を持ち上げる」ということも必要なかったりします。ですから、聞き手(読み手)との関係性を意識するということは少ないのです。 英語にも「ぼかし表現」的なもの、例えば "It is possible to say...." というような表現は色々あって、日本的には対象に「距離」を置いているとか、「言い切りを避けて聞き手への強制を緩和している」ように見えるかもしれませんが、この場合は「科学的に見て例外が排除できないので、断言の表現にはしない」という機能的な意味合い以上でも以下でもない場合がほとんどだと思われます。 そんなわけで、英語圏向けに発信するとしても「ですます」的な文体に関しては「こだわる」のではなく、その代わりに日本社会という「複雑系」をどう分かりやすく分析して伝えるか、あるいは英語圏のロジックや価値観を前提として誤解なく伝えるかということが留意点になるように思われます。 |
0 件のコメント:
コメントを投稿