同じ命なのにどうしてこうも反応が違うのか? 新聞・テレビなどでは、後藤さんを悼む報道がひっきりなしに続いている一方で、湯川さんに対するそれは皆無に近い。 後藤さんの報道が多すぎるというつもりはない。日本人のジャーナリストが殺されたのだ。むしろ日本のメディアは過去、取材で命を落としたジャーナリストに対して冷淡すぎたのでこれくらいの報道があってもいいと思っている。 そうした中、驚いたことがある。先日、10人ほどの日本を代表するファッション界のリーダーたちと会食をともにした。 話題が「後藤さんは自害すべきだ」というデヴィ夫人の発言になったときのことだ。参加者のうち数名が「国に迷惑をかけたんだから大賛成だ!」「心の底から拍手喝采した」と述べたのだ。 彼らを責めるつもりはない。日本人、および日本社会のジャーナリズムに対する認識はしょせんその程度なのだ。 それまでの30分ほど、今回の経緯について解説していた私は大いなる徒労感を覚えながら、世界におけるジャーナリズムの意義(日本ではない)、拘束されている人間はやはり生きようと一縷の望みを持っている、ということなどを述べたが、もうそれ以上は語らなかった。 無理解に尽きる。こうしたジャーナリズムへの無理解が日本社会から無くなることを祈る。そうした意味からも、後藤さんに関する報道が多く為されていることは歓迎しているが、注文をつけるとしたら、後藤さんが何を伝えようとしていたかに焦点を絞った報道が少ないところである。 安倍首相はダーイッシュに対して「償わせる」という言葉を使って報復を宣言した。だが、彼が生前に残した言葉は真逆で、中東での戦いに日本が巻き込まれないようにしてくれというものだった。 遺志に反する日本政府の勇ましい声を最も悲しんでいるのは他でもない斬首された後藤さんだろう。 さて、一方で、湯川さんの報道である。日本のメディアが彼についていつもの自主規制で抑制しているのは明白だ。湯川さんがジャーナリストではなく、民間軍事会社の社長としてシリア入りしているのだから、後藤さんと比して報道が少なくなるのは同感する。 だが、そうであるならば、メディアは報じない趣旨をきちんと説明すべきではないか。 軍事会社の社長であれば、戦闘に加わる用意があるとみなされ、命を狙われるのは当然だし、また、イスラム社会において男性器を切り落とした者が差別的な扱いを受けるのも、慣習の差に拠って仕方のないことだといえる(個人的に了解というわけではない)。 日本のメディアの悪しき習慣はそうした事実を知っていて語らないことだ。結果、読者や視聴者は、なにかわからないまま「湯川さん」というタブーを形成し、暗黙のレッテル張りを行うことに同調する。 本来そうした同調された空気を除去すべく先頭に立たなくてはならないのがメディアなのに、自らタブーを作り、レッテル張りに加担しているのだから、社会が良くなるわけがない。 湯川さんも後藤さんも、同じ日本人であり、同じ人間だ。そうした当たり前のことから考えをスタートして、世界中でジャーナリズム活動の安全が保障されるべきで、それに反した行為に対しては誰であろうと厳しく批判されているという世界標準の世論を日本人は知るべきだ。 ジャーナリスト後藤健二さんの死に対して、オバマ大統領をはじめ世界中のリーダーたちが哀悼の意を表し、一斉に抗議の声を上げたのは、ジャーナリズムを理解する社会が背景にあるからだ。 先進国を気取りながら、日本ほどジャーナリズムへの理解のない国は珍しい。それは、後藤さんの死後、安倍首相の声明が、彼が求め、発信して来たことと真逆になっていることでも、明らかだ。 自国民に冷たく、ジャーナリズムへの無理解が浸透してしまった日本で、後藤さんが訴えた戦争の無意味さと残酷さを伝えるのは極めて難しいことなのかもしれない。 |
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