冷泉 彰彦 現在、プリンストン日本語学校高等部主任。メールマガジンJMM(村上龍編集長)に「FROM911、USAレポート」を隔週寄稿。アメリカ北東部のプリンストンからの「定点観測」『冷泉彰彦のプリンストン通信』では、政治経済からエンタメ、スポーツ、コミュニケーション論まで多角的な情報をお届け! | うーん。これは難しい質問ですね。ちょっと時間をかけて考えてみたいと思いますが、とりあえず考えたのは以下のような認識です。 その「きつさ」ということでは、アメリカの政治家は「もっときつい」でしょうね。例えばディベートの場合に、相手が何か言って、自分は違う意見であれば、まず「ノー」と言いますし、あるいは "I don't think so." というような断定をハッキリ言うのが普通です。 例えば一対一でネゴをしていて、どこかに合意の落とし所を探っているような場合の談話形式は全く別で、もっとソフトで遠回しになるわけです。 ですが、有権者に呼びかけるとか、公開の席でディベートをするというような場合には、イエス・ノーは明確だし、敵は徹底して叩くということになります。 ただし、日本語と違うのは(「言語的特性」の話になりますが)、そこに上下のニュアンスが出ないことですね。「ノー」という「きつい否定」をしたからといって、そこには「お前より俺は偉い」とか「私が否定の対象とした言論を発したお前は私より格下であり、更に私は前を追い詰めて支配する」というようなニュアンスはないのです。 あくまでロジックの上での賛成反対であって、その上での「明確なイエス・ノー」であるわけです。 この問題は、先週からの「同調圧力と日本語」という話にも関係するのですが、日本語の場合はどうしても「関係性」ということが、ありとあらゆるコミュニケーションには絡まって来てしまうわけです。 ですから、「既得権にしがみつく人間を許さない」という言い方をすると、ものすごく冷たいし、攻撃的に聞こえてしまう一方で、「やむを得ない改革であり、そのために不利益を被る人がいるのは胸が痛むが、どうしても財源がない以上、私が悪者になっても進めたい」というような「情に絡めたレトリック」を使えば好感度はグッと上がるわけです。 ですが、政治的にテクニカルな「弁舌のレトリック」という意味で考えると、あるレベルを越えた改革を行い、明らかに不利益を被る人が出てしまうような場合には、「不利益を被る人への人情味ある配慮」をして全体に目配りをするよりも「改革に賛同する人間の間での白黒ハッキリした政治的な勢い」を優先する方が、効果があるのかもしれません。 それは左右を入れ替えてみれば分かるのですが、例えば安保法制への反対ということで「自衛隊の方々は、もしかすると武器使用を認めてもらって、駆けつけ警護もできるようになって国際社会に貢献したいと思ってるかもしれません。 その気持ちは理解できるし、国際社会としても期待はあるのかもしれません。ですが、戦後70年、旧枢軸国の汚名を維持することで、非武装中立の理想も語りながら平和を維持してきた日本が変わることは怖いし、その恐怖心は本能的なものなのです。自衛隊の皆さんに対して悪意はないが、この本能的な恐怖心ということを何とか分かって欲しい」などという「関係性に留意した」人情味あるレトリックで語ってしまっては、反対運動には全く勢いが出ないわけです。 その意味で、橋下氏のレトリックが異常であったとは私はそれほど強くは思わないのです。橋下氏の「維新」の運動に関しては、本号の冒頭に申し上げたように行政の簡素化に関しては不可避という認識を持っていましたが、その一方で、 1)東北、北海道、四国などの地方社会をどう崩壊から救うのかというビジョンが皆無。 2)大阪の経済成長策が、カジノとベンチャー誘致などという空論ばかり。 という二点に関しては大いに不満であり、私としては支持はできなかったということを申し上げておきたいと思います。 |
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